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事務局ニュース【NO.2016-174】

第34回健康医療ネットワークセミナー開催報告

リスク統計創設構想

健康リスクの公的モニタリング・システム

【講師】そうけ島 茂 先生(三重大学大学院医学系研究科公衆衛生、産業医学分野 教授)

【講演資料その1】 【講演資料その2】

私のいる公衆衛生学という分野は、今大きく変革を遂げようとしている。教員になりたての頃は、公衆衛生学は不要とも言われていました。 それが、逆転、公衆衛生学的アプローチの重要性が理解され始めています。変革期だからこそ出てくる課題についてお話ししようと思います。

●エビデンスに基づく議論の必要性

皆さん、疫学(Epidemiology)という言葉をご存じでしょうか。例えば、喫煙者と非喫煙者の肺がんになるリスクを集団における実証的研究で明らかにしていく学問です。 リスク・ファクターとして、生物学的要因から、健康、特にQOL(Quality of Life)に大きな影響を与えるものを、社会疫学の観点から社会環境や経済要因など、 一人の行動で改善できる範囲を超えている分野への研究が進んでいます。

昨今の「過労死」の問題とからみ、時間外労働のファクターとして、36(サブロク)協定がある。労働基準法第36条によって、 所定外労働時間の許容範囲を労使の交渉で決めるもので、本来集団における健康度を上げ、重労働による健康問題を回避するために作られたものです。 最近の議論では、残業は年間1か月平均60時間を超えないように企業に義務づけるが、繁忙時にはこれを1か月100時間まで許容し、 年平均としては月60時間までにしようという制度はどうかとも言われています。しかし、政府のなかでさえ、100時間まで認めるのは行き過ぎという声もあり、 大きな議論になっている。

この決め方、疫学的判断に基づかず、ノー・エビデンスで議論されていることは危惧されるべきです。例えば、労働時間と心筋梗塞のリスクについて、 労働時間が原因で病気になる危険性を計算できるのか。労働時間を適正に管理すれば、心筋梗塞をどのくらい減らすことができるか計算できるか。 その時、医療経済の観点から労災の負担はどの程度減るか計算できるか。この一連の流れが、疫学的考え方です。単なる症例研究にとどまらず、 疫学における分析的研究では、制御可能な条件の有無で、疾患/死亡などの発生確率を比較しなければなりません。

実際、1998年に私は、BMJ(British Medical Journal)に1か月間、1日平均3時間残業する人の心筋梗塞のリスクについて、1日8時間の通常労働の人に比べ、 リスクは2〜3倍と厳しいものだと発表しています。ただ、発症前直近の労働時間だけでなく過去1年間の労働時間の増加方向も組み合わせて評価すべき。一方、 労働時間が少なければいいのかというと一概には言えず、1日7時間以下でも心筋梗塞のリスクが高くなっている傾向もあり、これを分析することは、 労働時間の最適性を得るためにもメカニズムとして非常に重要です。

●「国勢調査コホート」と「リスク統計」

国勢調査(センサス)の年に、特殊報告を用いて人口動態統計が発表されます。職業種別統計によると、平均寿命は管理職、専門・技術職、事務職と上がって、 現業の人が一番長生きです。問題なのは、日本の女性管理職の寿命の短さです。女性管理職の皆さん、気をつけてください。奥さんが管理職ならいたわってください。 また、英国や米国では、この順番が全く逆で、社会格差と結びつけて論じられることも多い。

亡くなった人の職業はふつう家族によって届けられ、人の一生を通して必ずしも的確に申告されているわけではありません。 疾患や亡くなるにいたった状態の変化を生じる確率をリスクとしてとらえるには、その人を縦断的に追跡する必要があります。これは、疫学研究では基本的な方法で、 そこから得られるエビデンスは政策立案など方向性を左右する重要なものなのです。

ですから、リスク探索のモニタリング・要因分析として、国勢調査と個人レベルの縦断的な情報がリンクしたら、たいへん信頼のおけるデータとなる。これを、 「国勢調査コホート」と名づけ、国勢調査をベースラインとして、人口動態統計を分析していくと有用なデータが得られるように、検討していこうというものです。 ベースラインの職業や産業をどう検討するか、死亡や疾患の要因分析に大いに役立つ。日本もようやくがんの疾患登録については体をなし、医療番号を設定すると言っているが、 まだ国勢調査とは結びついていない。どういった社会環境から、いかなる疾患がもたらされるかというような方向には至っていないのが現状です。 アスベストと中皮腫のリンクなど、対策が後手に回り、多くのものが見逃されてきました。

「国勢調査コホート」を核に、個人ベースの縦断的リンケージに基づくものを「リスク統計」としてモニタリングし、厳密な分析が必要なら、サブ・コホートを実施する。 患者さんにしても、自分が治療を受けている中で研究がなされ、また研究が進んでいくうちに新たな治療法が模索される。今は、治療と研究が別ルートになってしまっています。 患者さんにとっても医者にとっても大変なことです。

●機能的な統計制度の確立へ

英国では、1970年代初頭から、ONSLS(The Office for National Statistics Longitudinal Study)として、国勢調査コホートを開始し、 我々がうらやむ政策立案に結びついています。10年ごとのセンサスと個人の情報がリンクしている。がん登録ともリンケージし、政府統計にさまざまなレベルで反映されてきました。 きわめて巧緻なシステムです。イングランド/ウェールズの人口1%にあたる50万人強サイズのベースラインには、通常のデータに加え、健康状態や疾患の状況についても含まれてきます。なぜONSLSが可能になったのか。我々が考えたのと同じように、それまでは死者の職業分類データの曖昧さに問題があった。慢性疾患にかかると職業を変えるケースも多く、個人の前向きの縦断的研究(Longitudinal Study)が必要だったのです。

現在、大きな課題として少子化問題があります。女性の出生パターン、少子化傾向の社会経済的要因分析と併せ、個々の縦断的なデータ、ライフスタイル、 世代間の相違など、個人レベルのデータを多変量解析できるような政府統計がどうしても必要となってくる。英国の特殊合計出生率はとっくに1.8を上回っています。

世界の知識人の中でも、現在もっとも魅力的なエマニュエル・トッド、ヨーロッパにおける出生率のデバイドを示したフランスの人口学者です。出生率の高いフランス、 ベルギー、オランダ、デンマーク、英国、アイルランド、アイスランド、スカンジナビア三国と、低いスペイン、ドイツ、イタリアなどの地域の間に線が引ける。 合計特殊出生率の高い地域は、統計制度を確立し、少子化の原因を分析して、適切な対策ができている国。フランスで出生率が上がったのは、 子ども1人が成人するまで約1000万円の政府補助、2人目ならそれ以上の援助を受けられるからと言われているが、実は周到な対策が練られているのです。 日本でも、エビデンスに基づく少子化対策を打たないと、現状のままでは遅々として方向性は見えてこないでしょう。

倫理的な課題として、個人情報の扱いには慎重に配慮し、不適切な利用を回避した上で、個人データの「活用」による社会福祉の向上を視野に、 社会システムのあり方を見直す時期にきています。「リスク統計」について、社会がその利益とマイナス面に対応しながら、きちんと議論しなければなりません。 機能的な統計制度を創設することは、変革期にある日本のさまざまな課題解決のための羅針盤となるものと期待しています。

【プロフィール】

早大政経・富山医薬大医卒(1990)。ロンドン大学客員研究員を経て富山医薬大大学院博士課程修了(医博、1994)。 京大大学院助教授(医学研究科理論疫学)、厚労省技官(国立保健医療科学院)を経て 三重大学大学院教授(医学系研究科公衆衛生・産業医学分野、2010)。 2012年より同大疫学センター センター長(医学部附属病院)を兼任。日本医学会社会部会Japan CDC(仮称)創設に関する委員会委員、 日本公衆衛生学会 学会長(第72回)。 Journal of occupational health編集長を経て日本産業衛生学会理事。

以上

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